プチトマト大捕り物
サイゼリヤに行くと、わたしは必ず小エビのサラダを頼む。
あの小エビが大好きだ。
景気良くたくさん乗っていて、ドレッシングもおいしい。
わたしは野菜に今ひとつ共鳴していないが、健康に気を遣っている顔をしながら、好きなものを食べている感じが非常に都合がいい
ただ、ひとつだけ思うことがある。
サラダってフォークだとめちゃくちゃ食べにくくないですか。
いや、わたしのフォークさばきが未熟なのかもしれない。
フォークの道は一日にして成らず。
まだ修行が足りないのかもしれない。
しかし、レタスの残党が皿の端に逃げていく。
刺そうとしても、ひらりとかわされる。
掬おうとしても、フォークの隙間からすり抜ける。
ドレッシングが潤滑油となり、レタス側の殿として機能している。
こちらはただサラダを食べたいだけなのに、食卓の上で捕り物が始まってしまう。
そして、プチトマトである。
やつはなんだ。
本当に食べられる気があるのか。
切られていないプチトマトは、フォークで食べるにはあまりにも球体としての自覚が強すぎる。
刺そうとすると、ころりと逃げる。
ぐぅ……!!
なぜわたしはフォークを握りしめて、プチトマト一個にここまで翻弄されているのか。
そもそも、サラダ文化の国でフォークが主流なのは不思議だ。
葉物野菜とフォークの相性は、本当に検証されたのだろうか。
会議室で一度くらい、誰かが「すみません、これ箸のほうがよくないですか」と発言していてもおかしくない。
しかしその意見は、きっと権威主義のようなものに阻まれたのだろう。
歴史あるフォークを無碍にできない。
そんな癒着が生み出した悲劇が、コロコロと逃げるプチトマトだ。
というか、わたしは箸が好きすぎる。
箸は実によい。
つかめる。
この一点こそ箸に許された最上の機能だ。
レタスをつかめる。
小エビをつかめる。
プチトマトも、少し慎重にいけばつかめる。
皿の端に残った細い野菜も、最後の一切れまできちんとつまめる。
箸には、食べ物と向き合う誠実さがある。
「刺す」でもなく、「すくう」でもなく、「つまむ」。
この繊細な距離感がいい。
人間関係もこれくらいでありたい。
フォークは、どうしても少し力技に感じる。
刺す。押さえる。寄せる。
やつは完全な武闘派である。
なんなら、わたしはすべての食事に箸を使いたいくらいだ。
ご飯、味噌汁、焼き魚、唐揚げ、サラダ、パスタ。
ポテトチップスも手が汚れるから箸で食べる。
さすがにケーキはどうかと思うが、選べるなら本当は箸を使いたい。
ショートケーキのいちごを箸でつまんだ瞬間、なにか大切な文化の境界線を越える気はするが。
柔よく剛を制す。
細く、静かで、目立たない。
でも、いざ食事が始まると、だいたいのものをどうにかしてくれる。
箸は、ただの二本の棒ではない。
たぶん、どこかの名もなき鍛冶職人が、レタスの逃走に涙した末に打ち上げた食卓の刃なのだ。
火にくべ、槌を振るい、己の未熟なフォークさばきを悔いながら、こう祈ったに違いない。
「次こそ、プチトマトを逃がさぬものを」
その祈りの結晶が、箸である。
数多のプチトマトを逃したフォークの無念を背負い、箸は今日も食卓を駆ける。
フォーン
ン





はじめまして。面白いエッセイを読ませていただきありがとうございます。
読みながら浮かんだ言葉は、「天才現る」です。
サイゼの小エビのサラダ、私もいつも頼みます。これから食べるたびに大捕物を思い出すことが確定しました。
ショートケーキのくだりで吹きました。
ああ…あの苺を…箸でつまんでみたい…!!
テーブルマナー講師です。
本当に仰る通り、意外と攻略難易度が高いのがサラダです。
もしあれば、フォークと一緒にナイフを使うとトマトの逃げ場をなくせるので、諦めて食べられてくれるかもしれません…!
うまく捕まってくれますように🍅